足早に過ぎ去っていく日々
私は久しぶりにブログを書く。
その前に他のアカウントの昔のブログを見返してみた。
私は多分頭の中にとても具体的な哲学的立場を所有しているが、その言語化はどれも適切では無い。
だから自分で何を言っているかよく分からなかった。
しかしそんなものももう誰も読まないのだからどうだっていい。
最近は日々があっという間に終わる。
昔は頻繁にTwitterを見ていたが最近は全く見ていない。
頭の中からTwitterの必要性が減ったのでしょう。
良いこととか悪いこととかそういうのは無くて、依存から離れる瞬間は新しい自分を構成するチャンスだと思うので大切にしたい。
以前から思うことであるけれど、
私が大切にしているのは人の感情である。
高学歴で理系であるから理屈くさいように思われるかもしれない。あるいは、そのような側面を持つかもしれない。
でも、ことある事に人が何を感じるか?という事を考えてきた。
もちろん、学びきれてないことは沢山ある。
自分の振る舞いが相手にどんな印象を与えるか?という事では無い。
人の感情の妥当性への推論のようなものである。だから、色んな体験をする事は刺激的だった。
別に地位や名誉や喜びに固執する必要は無いし日々の中に喜怒哀楽を無理やり創成する必要性もない。
ただ、普通に生きて、普通に起きたこと。その全てが学びになる。つまりは楽しいということ。
論理とは極論自明性である。
当たり前を説明してるだけである。
当たり前と瓦解された当たり前が対立する時その溝を埋めようと画策するのが議論なのかもしれない。
インターネットで本当に正義感のある人達が日々行っているのはまさに壊されようとしてる正常を守るための反論である。
結論は予め決まっている。手順など踏まずゴールは決まっている。
具体性はそれをなぞる事で見えてくる。
具体性は再現性を示す。
職場などでは再現性が必要なので具体的に考察する必要がある。
ならば、
社会に倫理が必要なのなら、答えを教えて正すことではなく、答えに導く道中の再現性を与えてやる方が良いのではないか。
例えば、マスクを拒否し、他者にウイルスをばらまく異常者。
彼らに必要なのはマスクをする事での成功体験である。
失敗しない可能性が高い事は通常彼らの成功体験には該当しない。
しかし実際には成功体験なのだ。
現状何も起こっていないという、平和はこれ以上ない至福なのである。
私たちは退屈なので問題を生成してしまう。
人の死は、主観の消失である。
目の前になんの変化も起こらなくなる。
それを目指して生きるのだから(死を目指して)
何も起こらないことは平和な事である。
魂の消失が怖いのだろうか?
主観の永続性を暗黙のうちに仮定してるのだろうか?
どうしようも無いです。人はいずれ死ぬのだから、どんどん終わらせていきましょう。
生きている内に世界が停止すればそれは神の証。
思考を分解する度に人の矛盾が顕になる。
向かっている方向と、求めているものと、言動が全て不一致。
思考することは喜びでは無い。苦しみである。
一つ一つ終わらせても思考は永続的に続く入れ子の中の無限の無限。
先ずはひとつのゴールで区切って、とにかく片付ける。
仕事のできる人も同じ事をする。
この世の条理は小規模にもこの世界に反映されている。
況や入れ子なので。
自明な無限の中で無限に溺れずに生きる。
明日からすぐにできる簡単なライフハックかもしれない。
僕も忘れないようにしておこう。
雪花